A年の説教 2011年  



復活節
 〜
 キリストの聖体


   復活節第2主日
   復活節第3主日
   復活節第4主日
   復活節第5主日
   復活節第6主日
   主の昇天の祭日
   聖霊降臨の祭日
   三位一体の祭日
   キリストの聖体

                復活節第2主日 2011-5-2 A年 グイノ・ジェラール神父

     使徒242-47  1ペトロ13-9   ヨハネ2019-31

   ヨハネは聖書の中で見ること、信じるという言葉をずっと繰り返す。決定的なしるしを要求する信仰を警戒するように教えている。もし、神を信じるために信仰を願うとしたら、神を信じるために誘惑することです。真(まこと)の信仰は目によってではなく、聞くことによって与えられる。神は絶えずご自分のみ言葉により頼むことを誘います。例えばモーセは民のために奇跡を行いましたが、民は神を理解せずに、悪い道を歩んだ。キリストも様々の奇跡を行いましたが、人々は不平や不満を言った。ある町の百人隊長はイエスに「一つの言葉を言ってください。そうすれば私の僕は癒されます」と言った。イエスは「この人のような信仰は今までに見たことがない」と言われた。これは聞いた言葉を自分のものとしたために信仰が強くなったのです。神はいつも「聞きなさい」と言っておられる。『今日神の言葉を聞くなら神に心を閉じてはならない』と司祭は詩編の言葉で祈ります。

(まこと)の信仰は他人の言葉を自分のものとすることです。この他人は、神であろうと、預言者であろうと、キリストであろうと、キリストの証人であろうと、「見ないで信じる人は幸い」。今日こそ私たちの信仰が、聖書の証しとイエズスの復活の証人の証しによって、生まれ養われる。様々の証言に対する私たちの示す関係によって、全てを新たにする聖霊の力が与えられている。そこで、聖トマスと共に「私の主、私の神」と言えるでしょう。ペトロが教えているように。私たちの信仰とはペトロの手紙Tの1章8節から9節、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」見ずにキリストを愛すること。

   私たちの喜びは偉大である、なぜならヨハネの証しによると、私たちそれぞれはキリストのようになって、ありのままにキリストを見ることができるからです。ヨハネの手紙Tの3章2節「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」この幸せな時を待ちながら、教会は見ずに信じるという生き方を証しする。確かに、トマスはキリストの体にあった傷を見ましたが、彼は目に見えないものの神の現存を宣言します。今日の福音の中に私たちは、見るべき聞くべきは、まず、キリストが与える平和、罪の赦しと聖霊の賜物です。このような理由で今日列福されるヨハネ・パウロU世は、この日曜日を「神のいつくしみの主日」と呼ぶように決めました。最も必要な時、自分を見捨て、離れ離れになった弟子たちに平和と罪の赦しを復活したキリストを信じた人に与えることです。私たちはミサ祭儀の時、それを行っているのです。

 ヨハネは十字架と復活と聖霊の賜物を分けない(分裂させない)ように勧めているのです。キリストの傷から平和が私たちに与えられる、このキリストは生きている、生きて自分を仰ぎ見る人に聖霊を与える。今日、キリストが私たちの間にいる理由は、私たちは彼の受難と死と復活を記念するからです。ここに毎日曜日集る必要性の証拠です。トマスが弟子たちと一緒に居なかったから、キリストと出会わなかった。しかし8日後、彼らと共に一致して、教えられない信仰を受け、その信仰は殉教まで導くでしょう。

 毎日曜日、兄弟姉妹の皆さん。私たちは自分の目でイエスズの体と血を見、そして、私たちの信仰の神秘を宣言します。トマスのように私たちは、「キリストは生きている。彼は、私の主、私の神であり、そして聖霊が溢れるほど与えられた」ことを宣言します。「私たちの共同体を訪れる人々にも、また全世界中で十字架と復活の思いで生きるキリストを歓迎する人全てに聖霊が与えられていることを確信を持って教えている」と、ヨハネは証しします。  復活祭の七週間のうちに「アレルヤ」を歌えましょう!  しかし、この「アレルヤ」がキリストの血によって真っ赤に染めていること絶対に忘れないようにしましょう。  アーメン。



                  復活節第3主日 2011-5-8  A年 グイノ・ジェラール神父

     使徒2:14-2:142:22-2:33 1ペトロ1:17-1:21  ルカ 2413-35

   先週の日曜日にヨハネが見るよりも聞くのが良いと教えていた。今日はルカが同じことを繰り返します。エマオへの二人の巡礼者はイエズスについて全てを知っていた。ナダレの生活から、婦人によって発見された空っぽの墓まで、彼らはキリストが生きていると天使が伝えたことさえも知っていた。しかし彼らは、キリストが3年間のうちに言われたことと、その全ての出来事と聖書とが繋がっていなかった。だから何も分かりませんでした。そのためにキリストは彼らの心が燃えるように、そして彼らが自分をもう一度発見し、認めることが出来るように説明された。先ず、イエズスは二人の弟子の傍に来る。彼らの話をゆっくり聞く。確かにこの二人は婦人たちの説明を聞こうとしなかったし、天使のメッセージも信じなかった。そこでイエズスはわざと「物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち・・・」(ルカ2425-26)。と彼らを厳しく咎めてから、イエズスはご自分の生涯の出来事を聖書の光で照らし始めます。その時、旧約聖書は新約聖書への門を開き、聖書全体は福音の道に人を導く。神の言葉と親しんでこれをゆっくり読んで、心にとめ、分かち合って糧として、自分のものとして消化した時こそ、この言葉は人を照らし信仰を強め、希望を与えます。

   いつか私たちは人生の中で思いがけない失敗、絶望、親しい人の死の苦しみ、人間的に解決できない状況に必ずぶつかる。この状況の中でイエズスは傍にいて、一緒にゆっくり歩き、そして私たちの弱さと絶望を分かち合っている。私たちも自分の人生を照らすため、聖書の光が必要です。聖書を読めば読むほど、自分の心の中に燃える希望が表れる。そして今まで考えなかったような光が来て、解決を与える。イエズスと深く親しむことによって、神が私に望んでいることを分かるようになります。

   しかし、聖書と付き合うことだけでは充分ではない。イエズスの教えは確かに二人の弟子の心を温めたが、キリストを見つけることは出来なかった。彼らの目がまだ開いていません。そこで彼らのためにパンを裂くと言う特別なしるしを考えられた。イエスと出会うためには、どうしてもミサ祭儀を通して彼の体と血をいただくより良い方法がありません。聖体拝領によってキリストと深く出会い、信仰の目が開き、栄光の中にイエズスを見ることが出来るようになる。イエズスを受けることは、イエズスと共に留まりたいことを示すことです。キリストと留まることは、イエズスが自分の内に、自分と共に、自分によって、働くのを望むことです。 ミサの典礼は、それを理解する助けになります。というのは、回心の典礼を通して自分の弱さ失敗を認めてから、私たちはみ言葉の典礼に入ります。神の言葉の説明が、復活されたキリストに出会うために、私たちを祭壇の典礼(テーブル)まで導く。イエスの名によって集っている信徒の共同体以外に、復活されたキリストと出会うのは不可能です。祭壇の傍に置かれている復活のローソクは、具体的にこの真理を思い起こさせます。ですから、毎日曜日忠実にイエスと出会う恵みを神に願いましょう。 エマオの弟子たちは生きたキリストと出会った。私たちもここで同じ発見をする筈です。なぜなら、イエズスの名によって集った共同体の信仰生活の中に、キリストがおられるからです。私たちは生きたキリストの証人です。一人ひとり自分の信仰と忠実さによって、共同体の一致を実現している。バラバラにならないよう、キリストと共に教会であるキリストの体を形作ります。この体の中で私たちがどんな立場をとっていても、絶えず神の言葉を聞き、キリストの体で自分を養うことが必要です。

   また、エマオの弟子たちがしたように、私たちにとって見知らぬ人、外国人のような人を歓迎しなければならない。私たちの間に全く知らない人が偶然一日だけ来られる人がいます。クレオパとその仲間は、先へ行こうとしていた振りをした見知らぬ人を招きました。彼らはその人を自分のテーブルへ誘ったが、それにも関らずその人こそが彼らを招きました。この歓迎のお蔭で、見知らぬ人はキリスト自身であることを知った。ですから、いつか私たちの共同体を訪れる見知らぬ人を歓迎するように心がけましょう。私たちの歓迎の仕方が、キリストに付いてのよい証しとなるように。

   神の言葉と聖体の神秘によって、イエズスは私たちに与えられている。聖霊で生かされた教会の中で実際にイエズスはおられる。しかし、彼の体の部分である私たちの中にもおられる。特に、見知らぬ人、貧しい人、外国人の中に、偶然に会う人の中にもおられる。ミサ祭儀の典礼は、イエズスの栄光に輝いている顔を仰ぎ見ることができる。そして愛と力と光を私たちに与えます。私たちが教会から出ると日常生活の中に多くの人を見ます。その人々の顔のうちに、苦しいキリスト、困っているキリスト、助けの欲しいキリストを見つけなければならない。そのためにエマオの福音は私たちにとって大切な証しです。栄光のキリストから、苦しんでいるキリストまでの歩みを知らせねばなりません。今日のミサによって、復活されたキリストの栄光と喜びが、私たちを満たしますように。   アーメン。



             復活節第4主日 2011-5-17  A年 グイノ・ジェラール神父

      使徒2:14-2:142:36-2:41 1ペトロ2:20-2:25 ヨハネ10:1-10:10 

   羊飼いは普通、自分の利益のために、各羊から役に立つ物を取ろうとしている。それはミルク、毛、肉、皮・・・失うものは何一つない。しかしイエスは羊飼いとして、取るよりも自分の群れに全てを与える。羊が生きるように自分の命さえ与える。そのために福音はこの良い牧者の声を聞いて、豊かに命を受けるように、彼の後に従って歩むことを勧めているのです。「私の羊は私の声を聞く」とキリストは言っている。キリストの後に従うための歩みを始めるこれは第一の条件です。キリストと親しい関係を結ぶために、キリストの声を聞き分けるために聞く必要がある。神の言葉がまことに道案内、光、命の道です。

   神の静かすぎる声を聞き分けるためには、まず時間をとること、沈黙を守り、自分の心を開く必要がある。神は人間にとても近いと同時に、遥かに私たちを超えているからです。イエズスに従う決意をとることは、キリストと交わることを決めることです。キリストに聞き、彼を信頼し、彼と一致する決意をとることです。そして、習慣によって自分の身に付けた癖を全て捨て、神が開く道を歩むことです。キリストと共に歩むことによって、私たちは信仰、愛、希望のうちに成長し、変容されます。キリストの声を聞きながら、一緒に歩むことによって、私たちは忠実さを学びます。なぜなら、弟子であることは自分の人生の中に十字架の苦しみと死の悶え苦しみを承諾することです。

   全てに於いて、イエズスに従う決意に対して私たちは忠実でなければならない。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ923)とイエズスは願っています。このような忠実さは、いつか殉教まで導くかも知れません。しかし、私たちは、イエズスを信じる人は死んでも生きると言うことを知っているのです。(ヨハネ1125「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」)キリストは

   自分の後に従うために助けとして、私たちにご自分の友情を示します。一人ひとりの名を呼ぶことによって、愛情を示します。そこで私たちは、どうしてもキリストに真似る必要がある。日常生活の中で、イエズスの名を呼ぼうとしたらどうでしょう。『父よ、聖霊よ、イエズスよ』と何度も呼びかけましょう。親しさを示すためです。イエズスは私たちを僕ではなく、友と呼ばれた。私たちは神に心のメッセージを送りましょう。「今日の恵みをありがとう。感謝します。」など短いことばを神に捧げてください。イエズスの名は救う、癒す、神に栄光を与える、聖化をする。信仰と信頼のうちに成長するために、私たちはイエズスと親しい関係を結ばなければならない。しかし、イエズスを彼の名によって呼ぶことは、他のことも要求される。それは、私たちを囲んでいる人たちと同じように親しい関係、強い繋がりを結ぶことを要求されている。兄弟姉妹、家族などの関係をよく考えてみましょう。

   信頼のうちにキリストに従うことは、救いを与える。救われることは、命を豊かに受けることだと今日のイエズスは説明しました。生き生きとした人生を豊かに生きることこそ、キリストが提案する救いの最初と最後の目的です。救いの第一の意味は自分の人生を豊かに生きること、自分の全てを賭けて生きること、これこそ自分を完成し実現することです。言い換えれば、幸せな者となることです。このように豊かに生きるように私たちは召されている。

   救いの第2の意味を、譬え話を通して説明したいと思います。グイノ神父が死んだ時、アッと言う間に映画館の中に移された。その映画館は大き過ぎますが、とても設備の良い気持ちの好いイスに移されました。しかし、数えきれないイスに囲まれて、唯一人であった。急にスクリーンの前に一人の天使が現れて、次のように言いました。
「ようこそ、グイノ神父様。リラックスしてください。今からあなたの生涯の映画を上演しますから・・・。あなたが、言ったこと、行ったこと、考えたこと、想像したことさえも、ハッキリ見せます。さあお楽しみください。」映画を観ながら神父は混乱し、小さくなって、恥ずかしくて逃げようと思った。ようやく「終わり」という言葉が表れたとき、解放されてホッとした。そこに、天使がもう一度現れて、次のように言いました。『あなたは、この上演をよく味わったと思います。たぶん、あなたは、どうしてこの映画館にイスがたくさんあるのか、何故一人で座っているのかを考えているでしょう。理由は次のようです。「もう一度あなたの人生の映画を上演します。しかし、今度は全生涯に出会った人々みんなと一緒にここに来て、その映画を観ます」』それを聞いて、グイノ神父が恐れを感じてパニック状態に落ちた。しかし神に感謝です!この第2の上演が絶対にありません。第2の上演からキリストは私たちを救います。これこそ、救いの第2の意味です。イエズスは私たちのために死んだから、彼の血が罪から私たちを清めたから、他人によって裁かれる恥を神が取り除かれた。他人の判決を受けないために、キリストが前もって私たちを救った。神だけが私たちを裁きます。安心してください。

   イエズスは牧者として自分の身に私たち全ての誕生、罪、欠点、弱さを担っているからです。私たちが親しい神の子として生きていかねばならないので、私たちの妨げとなる全てのものを取り除きたいと思っておられる。私たちが解放され、自由の身となるためです。ですから、度々赦しの秘跡を受ける必要性がわかるでしょう。キリストは私たちを救いたい、良い者としたい、聖なる者としたい。だから今日もまた神に感謝しましょう。神の御ひとり子イエスが歩み寄って、愛を持って私たちに豊かにご自分の命を与え、私たちを完全に救ってくださった。アーメン。



               復活節第5主日    2011-5-22  A年 グイノ・ジェラール神父

         使徒6:1-6:7  1ペトロ2:4-2:9  ヨハネ141-12

   
先週は、世界召命祈願の日でした。今日の典礼をとおして、第2バチカン公会議は「教会の中にある様々な奉仕」について、考えるよう提案します。

  初代教会の信徒が、「信じた人々の群れは心も思いも一つにした」(使徒言行録432)にも関わらず、その共同体の中にギリシャ語を話す未亡人とヘブライ語を話す未亡人の間に軋轢が生じます。この未亡人たちの争いがきっかけとなって、助祭という制度が誕生しました。どの共同体でも、口論や諍いがありますが、こんにち、残念ながらそれは召し出しを生み出すに至りません。何故でしょう?と、考えるべきです。

  使徒言行録は、信者と弟子たちの間に起こった様々な口論・争いについてよく述べています。例えば、パウロは次々とペトロやバルナバやマルコと言い合いになり、彼らから離れてしまいます。コリントの教会の信者も互いに分裂していますし、ガラテヤの教会の信者もパウロの教えに従うか、エルサレムから来たヤコブの使者の教えに従うかで揺れ動きます。しかしながら、こういった問題があるにも関わらず、初代教会の全ての共同体は、その分裂の状態がそれ以上悪くならないように対処し、互いに分かち合い、提案し、必要なら選挙を行いました。とにかく、すべての信徒が起こった問題と関わり合ったのです。このように第1朗読によれば、信じる人々自身が、7人の助祭を選び出し、弟子たちはこの7人に按手しました。

  教会は、民主主義ではありません。ペトロはその手紙を通して、私たちは礎であるキリストの上に立てられている建物であることを説明します。私たちはみんな、聖なる司祭職と霊的な神殿になるために、生きた石であることを忘れないようにしましょう。しかしながら、ただキリスト一人だけが、建物の全ての石を一致させる要となっています。確かに、一つの石が建物から落ちていても、その建物自体はくずれません。けれども、もし礎であるキリストを拒否したり見捨てたりするなら、その建物全体がアッという間に崩れ落ちるでしょう。共同体的に、私たちは神の神殿であり、キリストの教会であり、神と人々との出会いの場でもあります。

  今日の福音で、イエズスは次のように言われます。「神の家には一人一人のために場所がある」そこでイエズスは、ご自身が父に導く真理と命の道であることを明言します。私たちが神の方へ進むように、イエズスはその父について語ります。また、イエズスは天の父が完全であるように、私たちも完全であるようにと望みます。父は、愛する神、赦す神、全てを与える神です。私たちの召し出しは、愛すること、赦すこと、全てを与えることです。これこそ神のように完全になることです。

  ペトロは、私たちに断言します。あなたたちは王の権能を持っている司祭です、と。    
第2バチカン公会議は、このペトロの言葉をかりて、キリスト者は司祭の民であり、共同体の中にそれぞれの人が、特別な奉仕の役割を持っている、と説明しています。私たちは司祭の民として、神の愛の不思議な御業を世界に伝え知らせる義務があります。私たち一人ひとりが個人的に、今自分がいる場所でこの使命を受けていますし、私たちがここに、キリストの名によって集まっている時、共同体的にその使命を担っています。

  キリストが父なる神を示し、どのように父に向って祈るかを教えられました。聖霊は、私たちの内にあるキリストの現存を示し、そしてキリストに向って、彼を「主」と呼ぶことを教えました。教会だけが世界に聖霊を啓示します。パウロが「聖なる者」と呼んだ人々こそが教会です。そしてそれは、私たちのこの小さな共同体でもあります。聖霊によって生かされ、父なる神の栄光のためにキリストの名によって集められている私たちは、すでに神の聖性に与っているのです。今ここで、この共同体において、聖徒の交わりとは何であるかを示し、その神秘性を生きています。ミサに与る度に、私たちは、天と地の間で、また全教会と全世界との交わりのうちに、秘蹟的なときを生きています。そのために私たちは、司祭の民であり、王の権能を持っている司祭たちです。私たちが信仰を持つことは、私たちが生きているこの世界を絶えず神に捧げる義務を担っているということです。神がこの世のあらゆる種類の悪と苦しみから私たちを解放し、救い、聖化するために、聖霊が私たちのとりなしの祈りを支えています。
 
  世の救いのキリストの協力者として、私たちの責任は重いのです。しかし、世の終わりまで毎日神が私たちと共にいるからこそ、私たちには恐れたり、責任を拒んだりすることは許されません。これまでのように、神は私たちのうちに、私たちによって、私たちと共に行動されます。ですから、ご自身の栄光と世の救いのために、神が私たちを、生きた石であり、王の権能を持つ司祭であり、聖なる民であると定められたことに感謝しましょう。アーメン



          復活節第6主日“A”   2011年5月29日  グイノ・ジェラール神父

使徒8581417  1ペトロ31518  ヨハネ141521

    十字架までイエズスを導いた憎しみと暴力は、 彼の死で終わりませんでした。 寧ろ、ヨハネとペトロに対して続きました。 そして、ステファノの石殺しに始まり、 初代教会に対してこの憎しみと暴力が拡大しました。 それが切っ掛けでエルサレムのキリスト者があちこちに散らされ、隣の国々にさえ散らされています。 このようにステファノの仲間であるフィリポはサマリアへ行ってキリストを宣言し、たくさんの人々の回心を受けました。 このように最初の迫害がイスラエル以外のところで、福音を告げ知らせる助けとなりました。 迫害されたキリスト者にペトロは手紙を通してフィリポに倣って、自分たちの良い生活をののしられ、いくら悪口を言われても、 「いだいている希望について、 証しを要求する人々には、 いつでも弁明できるように」と、ペトロが願っています。 ご存知のようにキリスト者に対する迫害が世界中で今も続いているのです。

 
 イエズスは「弟子は師にまさらない」(マタ1024)と自分の友だちに忠告しました。自分が迫害されたように彼らにも同じことが起きると、 晩餐の時、イエズスは彼らに最後の忠告(アドバイス)を与えます。 彼は弟子たちに、 悪口や憎しみや迫害を恐れてはいけないと言いました。 なぜなら、悪のあらゆる種類の攻撃から、彼らを守る弁護者、つまり聖霊を与えるからです。 この聖霊が真理をハッキリ示します。 しかし、 何よりも先ず信じる人々が自分たちの内に、 自分たちと共に、自分たちの為に生きているキリストを感じさせ、 また 、 キリストを見る可能性を与えるのです。 イエズスはこの不思議な驚くべき言葉を私たちに残しておられます。 「かの日には、わたしが父の内におり、 あなたがたがわたしの内におり、 わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハ1420)と。 神とのこの親密さが、キリストの愛のため、または信仰のために迫害され侮辱されている全ての人に、 神ご自身の力と揺るぎない確信を与えます。 勿論、 この親密さを謙遜に神の手に委ねられた状態で生きて行かなければなりません。 それにも関らず、私たちはハッキリと強く言わなければならないことを宣言するべきです。

  キリスト者は、 恐れの霊ではなくて神の子とする力の霊を受けている、 とパウロが思い起こさせます(ロマ815)。 パウロは特に私たちのために祈りました。 深い喜びを持ってこの祈りを心に留めましょう。 この祈りは「どうか、 御父が、 その豊かな栄光に従い、 その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、 愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、 そしてついには、 神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、 それによって満たされるように。」(エフソ316-19

  聖霊の最初の役割は、 キリストを見せ、キリストを知らせることです。 「しばらくすると、 あなたがたはわたしを見る。 わたしが生きているので、 あなたがたも生きることになる。」(ヨハ1419)とイエズスは言います。 そして、イエスは次のことを加えます。 「私を愛するなら、私の言葉を守るでしょう。」  見ること、 知ること、信じることでは足りません。 死ぬ時まで、 キリストが証しした従順は、 キリストの弟子たちの道のりでなければなりません。 イエズスの名によって私たちは洗礼を受けた時に、 忠実さのうちに彼と復活するために、 キリストと共に死のうちに沈むことを承諾しました。

  キリストの教え全体が、 祈る必要性について語っています。 祈りは聖霊の最初の賜物です。 最初の朗読がそれを教えています。 ペトロとヨハネは、 サマリアの人のために祈っていました。 彼らが聖霊を受けるためでした。 聖霊はいつも、 既にそれを受けた人の祈りによって他の人に与えられます。 イエズスが弟子たちのために祈ったように、 弟子たちと司祭たちは洗礼志願者のために祈り、 司教たちは司祭になる人のために祈っています。 私たちはみんな聖霊の神殿となったから、 私たちの共同体が神の聖性と力に満たされるように祈っている。 「神は求める人に聖霊を必ず与える」(ルカ1113)とキリストが約束したから、 私たちは自分たちを囲んでいる人たちとこの世と世界に広がっている教会の為に、 絶えず聖霊の賜物を願いましょう。

  聖霊について語るのは難しい。 イエズスでさえ人間の言葉でこの神秘を説明するのは至難の業でした。 しかし、私たちの生き方を変える聖霊を知るのは、 そしてこの聖霊がどんな方であるか、 誰であるかを悟るのは、 非常に簡単です。 それは聖霊に向かって祈ることです。 キリスト者と言う人は、いつも聖霊で満たされた人でなければならない、 これは、イエズス自身の望みであり、私たちの使命でもあります。 全てを新たにする神に、 聖霊の光と力のうちに私たちが耐えず新たにされることを願いましょう。 「私たちの命はキリストと共に神の内に隠されている」(コロサイ33)から、ますます聖霊と親しい関係を結びましょう。 聖霊は私たちを聖化し、徐々に愛の完成まで私たちを導きます。 アーメン



                  主の昇天 2011-6-5 A年  グイノ・ジェラール神父

    使徒言行録 1:1-11  エフェソ1:17-23  マタイ28:16-20

   ルカによると、天に昇りながらイエズスは、ご自分の弟子たちをずっと見ておられます。 一方、弟子たちの方は、もはや肉眼でイエズスの姿を見ることは かないませんでした。 この日から、私たちが再び顔と顔をあわせてキリストの姿を見る日まで、このキリストの眼差しは、ずっと私たちの上に注がれています。 私たちがもはや、キリストの姿を見ることができないからといって、キリストが不在であるということではありません。 キリストの最後の言葉が、この事について証しています。 「私は世の終わりまで、毎日あなたたちと共にいる」と。

  「イエズスは天に昇って、栄光の内に高められ、 御父の右に座っておられます」言葉で言い尽くせないことを説明しようとすると、私たちはどうしても想像力を働かせなければなりません。 人間の体で死に、復活されたイエズスは、神の栄光にあずかっておられます。 イエズスは歴史の支配者であり、宇宙万物の王です。 栄光のうちにあるイエズスの昇天は、私たちの未来の姿を示し、私たち自身の昇天の約束でもあるのです。 天に昇ったイエズスは、ご自分の後に続く私たちを、力強く天に引きずりあげます。 それと同時に、全人類が神の無限の愛を見出すために、イエズスは私たちを世に遣わされます。 主の昇天は、 私たちが まことに神の愛する子であり、御父から遣わされた者であることを示しています。

  キリストの昇天の日から、私たちは、神の栄光に包まれた状態で、神の憐れみ深い眼差しの下におかれています。 というのは、私たちはイエズスの神秘的な体であり、 また、イエズスの教会でもあるからです。 聖パウロは実に明確な言葉で、この事を言い表わしています。 「私たちの命は、キリストと共に、神の内に隠されているのです(コロサイ3:3)」 一日一日を信仰・希望・愛の内に、この神秘を謙遜に生きるようにと、 教会は私たちに教えています。 キリストと共に、神の内に生きるという神秘は、私たちの理解をはるかに超えていますが、この神秘こそが、 キリストが私たちに注がれる眼差しの下で、 聖霊の力の内に、神の愛のリズムに同調して生きる可能性を豊かに与えているのです。 キリストの昇天は、大人の信仰を持つ事への招きです。 大人の信仰を持つなら、私たちは自分の心を神と一致させ、神と、そして他の全ての人々と親しい関係を築いて生きることができます。 私たちの心の内にある三位一体の親しい現存は、信仰の内に私たちを成長させ、新しい人へと変えます。

  キリストの昇天は、十字架の形を借りています。 垂直に、まっすぐ上へと、キリストが昇られ、そして私たちを引きずり上げます。 水平に、真横に、イエズスは世のはてまで、私たちを遣わしますが、同時にイエズスは、福音を宣言するために、私たちのすぐ隣に留まっておられます。 マルコはその福音書の終わりに、この事を  分かりやすくこう書きました。 「イエズスは天に上げられ・・・至る所で弟子たちと共に働いていた(マルコ16:19〜20)」 私たちは十字架の印をする度に、イエズスとの一致の神秘を思いおこします。 イエズスのそばにいる私たちは、この世界に宣教師として遣わされているのと同時に、信仰の内に、すでに復活したイエズスと共に、神の栄光の内にいます。 言葉をかえれば、私たちの現世の人生は、すでに、実際に、神の永遠に属しているのです。

  イエズスは、雲の上にはいません。 私たちと共にいて、 私たちの内に留まっておられます。 だからこそイエズスは、ご自分と親密な関係を結ぶようにと、私たちを招いておられます。私たちは、みんな一つで、実際にキリストの神秘的な体です。 というのは、キリストと出会うために、また世の歴史と日常生活の様々な出来事を通して キリストを見出すために、私たちはみなそれぞれ、互いを互いに必要としています。 それ故、キリストの最後の掟が、深い意味を持ちます。 「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13.34)」 また、私たちは救いの良い知らせを、全人類だけでなく、造られた全てのものに伝えなければなりません。 聖パウロは ローマ人への手紙の中で、次のように述べています。 「被造物が全て今日まで共にうめき(ローマ8:22)」キリストが来られるのを、私たちと共に待ち望んでいます。」 罪が奪った美しさと調和を、イエズスは 私たちを通して、全ての造られたものに返したいのです 。被造物を全て変容するこの救いの神秘を、ミサの第4奉献文が思いおこさせます。 「罪と死の腐敗から解放された宇宙万物と共に、主キリストによって、神の栄光を讃えることができますように 主キリストを通して、神は全ての良いものを世にお与えになります。」

  主の昇天は、 希望の祝日です。 私たちの人生の目的は、神の子の永遠の栄光です。 イエズスは、 断言されました。 「私は、天と地の一切の権能を授かっている(マタイ20:18) ご自身の死と復活によって、イエズスは全世界に救いを与え、造られた全てのものをあらたにします。 誇りをもって、私たちの信仰と希望を宣言しましょう。 そして、私たちの周囲の人に、神の無限の愛を表わしましょう。 たえずイエズスの憐れみ深い眼差しの下におかれていることを、父なる神に感謝しましょう。 心から喜びましょう。 世の終わりまで、イエズスは、毎日、私たちと共におられます!アーメン。



                聖霊降臨 2011−6−12 A年  グイノ・ジェラール神父

    使徒2,1-11  Tコリント12,3-712-13 ヨハネ20,19-23

   生まれかかった初代教会と弟子たちに イエズスがどのように聖霊が与えられたかについて、 今日 私たちは違った二つの話を聞きました。ルカによると 聖霊降臨は、 ある朝、 復活祭を40日間越えてから行われました。 ルカは特に強い風、火、そして群集の人々に伝染しやすい熱狂について語ります。 しかし、 ヨハネによると全てのドアは閉まったまま, 目立たないように, 復活祭の夜にイエズスの息吹によって、 弟子たちが聖霊を受けたことを宣べています。

   ヨハネにとっては大切なのは、 外面的なしるしではなくて、 内面的な結果です。 即ち、 弟子たちは復活の喜びのうちに入り、 そして, 失われた一致をイエズスの傍(そば)に取り戻します。 弟子たちの喜びが完全であるように、 彼らは先ず、 お互いを赦し合い、 そして、 キリストを見捨てて十字架に付けた人々をも赦さなければなりません。 返ってルカは、 生まれかかった初代教会の活躍を私たちに見せ、 また弟子たちの証しは既に世を変化することを現わそうとします。 世界に向かってキリストが私たちのために死に、 真に復活したこと、 そして私たちを救ったことをどうしても宣言しなければなりません。

   復活されたイエズスは、 新しい命の息吹き、 つまり聖霊の息吹きを弟子たちの上に吹き入れられるのを ヨハネが 私たちに見せます。 このようにして, ヨハネが私たちに 旧約聖書のこの大事な箇所を思い起こさせます。 それは先ず、 時の初めに最初の命の誕生、 つまり人間の創造 「神はアダムの鼻に命の息を吹き入れられた。」(創2,7) これこそ第1の創造です。 最後の創造は 預言者エゼキエルが宣べている。 「全ての死者の枯れた骨の上に吹き入れられた新しい息が 皆に 命を取り戻させる(生き返させる)」(エゼキエル37,9) これこそ未来の創造であり、 最後の日に行われる体の復活の日です。 この日はまた溢れるばかりの命の日(永遠の命の日)です。

   しかし、 聖霊の力のうちに今日(こんにち)でも実現されている現代の創造がある。 人間が創造され、神の息吹きを受けたのは、 神と一致して、 「神と共に呼吸するためだ」と ヨハネは思い起こさせます。 確かに、 聖霊は神のリズムに、 そして神の命、 その栄光と聖性に生きるように私たちを助けます。

   「聖霊を受けなさい」 とイエズスは言われます。 聖霊の賜物によって私たちは先ず、神の赦しと赦す力を受けます。 相互の赦しは、 私たちに一致の賜物を与え、 お互いの一致、そうして特に、 神ご自身との一致を与えます。 聖霊の賜物のお蔭で私たちは、 もはや、 僕ではなくて、 神の友です。 神の友であることは、 神の親密さのうちに生きることです。

   聖霊の賜物によって、 イエズスの弟子たち、 そして全人類は、 御父と御子を結び合う全てのものを 受け取らなければなりません。 ご自分の死と復活によって、 イエズスは 神と私たちを和解させただけでなくて、そのうえ、人間に正しい立場を取り戻しました。それは、神のうちに留まること、 三位一体の中心に留まることです。 「父よ、 あなたが私の内におられ、 私があなたの内にいるように・・・彼らも 私たちの内にいるようにしてください。 そうすれば、 世は・・・信じるようになります。」(ヨハ17,21) そう言う理由で、 三位一体の主日は聖霊降臨の主日のすぐ後に祝われています。 「体のすべての部分の数は多くても、体は一つである。」(
Tコリント12,12) と使徒パウロはコリントの手紙に教えています。

   聖霊の交わりの中で、 三位一体の中心に 私たちは 確かにキリストの神秘的な体です。「父よ、 私に与えてくださった人々を、 私のいる所に共におらせてください。」(ヨハ17,24) 私たちが神のうちに一つになるように、 三位一体の神を一致する愛が、 絶えず、 私たちの心に注がれますように。 「エルサレムにいた人々は 自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、 あっけにとられていました。」(使徒2,6)確かに、 弟子たちは愛の言葉を語りました。 この心の言葉は 喜びと平和にうちに生きることを可能とします。 ですから、 聖霊が益々私たちを一致させることを願いましょう。 私たちの偏見、恐れ、赦しの拒否、そして相手をありのままに受け入れる拒否も 聖霊の愛の火によって焼き尽くされますように。 アーメン。



            三位一体の主日 2011619日  グイノ・ジェラール神父

      出エジプト34,4-68-9  Uコリント 13,11-13  ヨハネ 3,16-18

   神について語るのは、 とても難しい事です。 「神」とか「三位一体」という言葉は、神の真理を説明することも表す事もできません。 ユダヤ人達は、 神の名を口で言わないように、 たくさんのイメージを借りて、 神について語っていました。 例えば、 神は盾、 神は岩、 神は全能の神、 いつくしみ深い神…などです。 私たちも、 ユダヤ人たちをまねて、 神の神秘を理解するために、 様々なイメージやたとえを利用しましょう。

   三位一体は、 二つの磁石に似ています。 二つの磁石を組み合わせると、 異なる一つの、 力あるものを引き寄せる磁場が生じます。 このように、 御父と御子は互いを引きつけることによって、 ご自分たちを超える愛の力を生み出します。 それが、 聖霊です。 もう一つの例えとして、 川を例にあげましょう。 川底と水とその流れが一致すると、 川が形づくられ、 この川はどこに流れて行っても、 命と豊かさを生み出します。 もう一つの例をあげましょう。 子どもの誕生によって、 夫と妻であった夫婦が家族となり、 従って、 父と母となった二人はお互いと、 子どもに対する新しい愛し方を見つけなければなりません。

   三位一体は、愛と豊かさの神秘であり、 永遠に新たにされる働きによって、 ご自分を示します。 愛はいつも豊かです。 御父と御子の間にある愛は、 とても強いので新しい顔で表れ、 それは聖霊です。 この新しい愛(聖霊)は、 ご自分を与えれば与えるほど、 ますます神が私たちを限りなく愛するようにさせます。 この愛の理由は、とても簡単です。 ご自分にかたどって私たちを創られた神は、私たち一人ひとりの内に、ご自分の似たところを認め、 完全にご自分を私たちにお与えになります。 「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、 世を愛された。」(ヨハネ3,16)

   すでに、 2世紀の聖イレネオ司教は、 次のように言いました。 「人間が神になるために、 神は人間になった。」 確かに、 私達の使命は、 神の内に神となることです。けれども、 他の人々との出会いなしに、 私たちは絶対に神になりません。 創世記の物語は、 三度繰り返して 「神がご自分にかたどって、 人を創造した。」 と述べます。 しかし、 最後に 、神は「人を男と女に創造された。」(創世記1,26-27) と述べています。 というわけで、 兄弟愛や友情の状態ではなく 、自分たちを超える愛の状態の中にいる時こそ、 私たちは、 神の似姿であることを神は教えています。

   神は、 モーゼにご自分の名を示す時、 人間の言葉を借りて、 父と母としてのご自分を言い表しました。 「神は恵みと憐れみに満ち、 怒るにおそく、 いつくしみ深い神」です。 ヘブライ語で、 「いつくしみ」という言葉は 、母親の乳房を意味します。つまり、 自分の赤ちゃんを養っているお母さんのように、 神はとても優しいのです。「憐れみ」という言葉は、 母親の胎内を意味します。 人を慰め、 立ち上がらせるために、 神は、 その人の惨めさの内に、 ご自分の心を置かれます。 忍耐は 、全てのお母さんの特長であり、 逆に、 怒りは 、男性的な特色と言えます。 神が、 母としてご自分を示されます。 神の忠実さは、 私たちにとって、 神と一緒に結ばれた契約を守るようにとの強い呼びかけです。

   神が、 具体的に私たちにご自分を示そうとしたので、 人間の状態をご自分のものとされました。 イエズスが、 神の完全な反映として、 父なる神の御顔を示します。 「主よ、 私たちに御父をお示し下さい。 そうすれば満足できます。」 と願うフィリポに対し、 イエズスは答えました。 「私を見た者は、 父を見たのだ。」(ヨハネ14,-9)と同時に、 イエズスは聖霊を示し、 その役割を示されました。 完全な神であり、 完全な人間であるイエズスは、 人間らしく神の神性を生きていました。 すなわち、 ご自分の全生涯によって、 「神となる」私たち人間の運命をイエズスは啓示しました。確かに、 私たちの人生は「キリストと共に、 神のうちに隠されています。」(コロサイ3,3) この事を確かめるために、私たちは神を愛し、 神がその人を愛しているように、 隣人を愛する必要があります。

  ヨハネは、 次のように書きました。 「愛する者は皆、 神を知っている。」(1ヨハネ4,7) 残念ながら、 神学者たちは、 愛し方を教えるよりも三位一体の神秘を説明しようとするあまり、 何世紀もの間にわたって、 ますます難解で複雑な言葉を創りました。 結局、 この言葉は、 異端と破門を引き起こしました。 このように、 千年以上、 たった一つの単純なラテン語「フィリオクエ filioque」によって、 キリスト者は分裂しています。 カトリックである私たちは、 「聖霊は父と子から出てくる」 と宣言しますが、 東方教会の信者たちは 「聖霊はキリストによって、 父から出てくる」 と言います。

  とにかく、 神学的な口論を忘れて、 三位一体の神が私たちをご自分にかたどって創造されたことを思い起こしましょう。 三位一体の神が、 私たちはどんな者であるか(人間そして神の子)を示し、 その上で、 私たちはどんな者になるように召されているか(神の内に神)を表しています。 今日、 聖パウロが昔、 コリントの信徒たちに話したように、 神が平和と愛の絆に存在しているからこそ、 私たちも平和と友情の絆をもって、 一緒に生きるように招かれているのです。アーメン



               キリストの聖体 2011-6-26  A年   グイノ・ジェラール神父

     申命8,2-314-16  Tコリント10,16-17 ヨハネ、5-58

   エジプトの奴隷の制度から解放された神の民は、 様々の試練の真っただ中に長年砂漠の生活を過ごしたことを 第1の朗読が思い起こさせます。 この試練を通して 神はご自分の民に忠実と信頼を学ぼうとしました。 エジプトで虐待され、 砂漠の中で神の民は飢えと渇きを知り、 さらにサソリ、毒蛇、敵となっている色々な部族の脅迫を受けている。 しかし、神が忠実に自分の民を守ります。 砂漠で,神から来るパンは、 毎日降って来る天のマナです。 神から来る飲み物は、 岩から湧き出る水です。 そして、神ご自身が敵と戦うのです。 更に,火と煙の柱によって、約束された地まで神が 絶えずご自分の民を導きます。 このようにして神の民は 約束された地に入るのは、 自分の力によってではなくて、 むしろ、はっきり目に見える神の力のよってという事を理解します。

  昔も今日でも、行われている聖体行列が 砂漠の中でイスラエルの長い旅を具体化しようとしている。 聖体であるキリストの後に従って 信者が自分の町の道を歩きながら 神の国の象徴である自分たちの教会、 または小聖堂まで出会った人々を誘い、導きます。

  人間となった神であるイエズスは、 ヨハネの福音を通して 私たちにご自分が変わらない神であり、 ご自分の忠実さが永遠に留まると言われます。 「わたしは、 天から降って来た生きたパンである。」(ヨハネ6,51)、 「渇いている人はだれでも、 わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7,37)、 「わたしは羊のために命を与える。」(ヨハネ10,15) この命と真理の言葉によって、 私たちはキリストの御血と御体の神秘に招き入れられます。

  御存じのように、自分の血と肉とを与えながら母は 自分の体内の子に命を与え、そしてその子が生まれたとたん、 自分の母乳でその子を育てます。 同様に、神はご自分を惜しむことなく与えることによって、 私たちを生かす。 神の息吹が私たちの内にあり、神の体と血が私たちを養い、 神の教えが私の信仰を強め、 それを揺るぎないものとするためです。 「わたしの肉を食べ、 わたしの血を飲む者は、 いつもわたしの内におり、 わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6,56

  聖体拝領は、 いつも神の心の中心まで私たちを招き入れる。 そう言う訳で、 イエズスが晩餐の日、 弟子たちに次のように言われた。 「これをわたしの記念として行いなさい。」 この言葉は、 キリストの言った事、 行った事をその通り繰り返すと言う意味ではありません。 むしろ、その意味は次のようです。 「あなた方が生きるために 、私が命を与えたように、 あなた方も自分の命を与えなさい。 ですから、 私があなたのためにした事を思い出して、人々に対して同じようにしなさい。」 と。

  ミサ祭儀と言うのは、 それぞれの人が 自分の望んでいるものを探しに来る セルフサービスではありません。 また、ミサ祭儀は 何世紀も続いて、絶えず上演される悲劇でもありません。 ミサと言うのは、 死に引き渡された体と流された血によって 、私たちに命を与える神ご自身です。 ミサとは、 私たちが神の内に留まるように、 御自分の内に 私たちを留まらせる神ご自身です。 ミサ祭儀は、 大勢の人が救われるように、 キリストに倣って私たちも 愛によって自分の命を与えるように切に招きます。

  私たちは今日、 神の命を受け、 また神の命を与えるために この祭壇を囲んでいます。 キリストの御体と御血を頂くことで、 イエズスは私たちの内に留まり、 そして内面的に私たちを変容し、私たちが 彼と親密に一致するように。 聖体拝領によって、私たちはキリストの内に留まり、 そして私たちの体は聖霊の神殿となります。

  「わたしの愛に留まりなさい。… わたしの喜びがあなたがたの内にあるように、そしてあなたがたの喜びが満たされるように。」(ヨハネ15,911) とイエズスは私たちに語ります。 毎年祝おうとしている聖体の祭日は、 喜びの祝いであり、 私たちの祝い日です。 今日、私は司祭叙階35周年記念を祝っています。 神の摂理によって、私の司祭叙階記念が、 聖体の祭日と一致したことを神に大いに感謝します。 今日こそ、本当に、私たちの祝い日です。 ですから、私たちがキリストの御体と御血である事実を理解し、その神秘を一緒に喜びながら、 神に感謝しましょう。 そして、イエズスが聖霊を私たちに与えるように願いましょう。 それは、神が私たちの心の奥底に置かれた、 この親密さと喜びの偉大な神秘によって私たちが生きるようになるためです。 アーメン。


                              
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